バリ島の思い出

1997年5月4日
小 原 茂 幸

1978年4月から9月までの6ヶ月間、私はインドネシアに滞在していました。
初めての海外旅行であり、しかも一人旅でした。
東京の大学を卒業して、京都で2年間働いた後、退社しての事です。
私が24歳の時でした。
日本を外から見てみたいというほどの、
特にこれといった目的は持たない一人旅でした。
しいて言えば、言葉も使えず、人種も生活習慣も全く異なる世界で、
どれだけ自分が通用するのか、自分を試してみる旅でした。
まるで「神隠し」に遭ったように異質な世界に飛び込んでみたかったのです。
それができる日本であり時代でした。

そこで私が最初に訪れた外国、それが「バリ島」だったのです。
バリでの最初の3日間だけはホテルに泊まりました。
国際的でエキゾッチックな、ヨーロッパ人好みの良いホテルでした。
1泊素泊まり10000円相当でした。
しかしその後の6ヶ月間、ホテルを利用する事は一切ありませんでした。
民宿を含めてほとんどを現地の人にお世話になったからです。

バリには時期をずらせて3回、1ヶ月以上の滞在でした。
現地で知り合ったガイドさんのお兄さんが営む民宿にお世話になりました。
1泊2食付きで約1000円でした。
州都デンパサールから車で約30分。
たくさんの高い椰子の木に囲まれた、静かですごしやすい村(カンプーン)でした。
牛も鶏もブタも犬も猫もガチョウも人間も、みな裸足で歩いていました。
道ですれ違う老婆は胸を露にし、早朝や夕方に散歩(ジャランジャラン)をすれば、
火山灰を溶かした赤茶色の水が流れる川岸に、
大人も子供も、男も女も、皆一緒に行水(マンディ)をする姿が見られました。
電気がひかれている住宅はまだ極わずかで、
夜ともなれば真の闇が村を包み込みました。
初めての村の夜に、遠く近く聞こえてくるガムランの音に誘われて、
家の門を出たとき、真暗闇の中で無数に飛び交う蛍の群れに感激して、
ふと見上げた空に南十字星がはっきりと見えたことを今でも忘れる事はできません。
その頃のバリは「地上最後の楽園」と呼ばれていました。

私がお世話になった家は、学校の校長先生(マハグルー)の家でした。
奥さんも教員で、ヒンズーのカーストの中では王族の位にありました。
村の中ではかなり裕福な家でした。
かなり古いとはいえ自家用車がありました。
バイクもありました。
この村に数台しかないテレビもありました。
夜にはたくさんの親戚や近所の人がテレビの前に集まりました。

私は民宿用に作られた3つの部屋の一つを使わせていただきました。
椅子とテーブルのあるテラスがありました。
私は子供たちと会話(ベチャラベチャラ)しながら、
必死にインドネシア語を学びました。
夢の中で、何度もインドネシア語を話していました。
夜の闇、朝のまばゆい光、午後のまどろみ。
私は心暖かい人々に囲まれ、助けられながら、
人生の中で、二度と訪れないだろう、ゆとりの時をここで過ごしたのです。

国民の9割以上がイスラム教のインドネシアにおいて、
バリ島はヒンズー教の島です。
そしてバリは祭りの島です。
ヒンズーの神神のために祈り、歌い、奉げ、祭るのです。
全ての人間の営みはヒンズーの神神のために行われました。
農業を主体とする中で、芸術と生活が渾然一体となっていました。
村人は楽器の演奏者であり、踊り手であり、彫刻家であり、画家でした。
ガムランの演奏も、ケチャッも、石の彫刻も、木彫りも、絵画も、
ヒンズーの神神のためのものでした。
それが、最近になって押し寄せた観光客のためのものになっていようと、
それで得たお金は神神のために使われるのでした。

毎日毎日、島の何処かでお祭りが行われていました。
小さなお祭りから、数十年に一度の大祭まで、
様々なお祭りに出会いました。

鉄琴を打つガムランの響き。
石に刻まれたヒンズーの神神。
原色の明るい衣裳をまとった踊り手たちのラーマーヤナ。
パーム油(椰子油)の香り。
屋台の賑わい。
闘鶏による鶏の声、そして掛声。
幾重にも幾重にも重ねられた奉げ物の山、山、山。
強い日差し。
子供たちのにぎやかな声。
一晩中繰り広げられる影絵(ワヤン)の世界。
アジア的喧燥とヒンズー文化。
微笑みの人々。
信じること、祈ること、踊ること。
内陸の山中の寺院での祭り。
海辺での祭り。
同じ衣裳を着た百人を超える男ばかりの踊り。
数千人の群集で、海辺が埋め尽くされました。
白装束を身にまとった少女だけの踊り。
歯を削って(ポトンギギ)成人式を祝う祭り。
あるいは、海辺の村で行われたささやかな結婚式。
歌い、踊り、食べ、話し、祝福し、
二人の幸せを願う思いは、村中にあふれ、
神神の祝福を得ようと祈るのでした。

ヒンズーの神神を祭ることが、生きていくこと、
生活することそのものなのでした。

滞在していた間に、2つのお葬式がありました。
一人は同じ村の身分の高い人でした。
もう一人はお世話になっていたガイドさんの知人でした。
交通事故でした。
私もいっしょにデンパサールの病院の霊安室まで付き添いました。
生活習慣も、言葉も、信じる神神も異なっても、
人間が生きていく上での喜怒哀楽は同じです。
出会いと別れ。
村人全員で、色とりどりの紙や椰子の葉で飾り物を作り、
絵を描き、木を削り、豚をつぶし、料理を作り、ガムランを響かせ、歌い、
踊り、祈るのでした。
お金のある人は直ぐに火葬にされました。
広場での荼毘。
野辺の送り。
赤く燃え上がる炎。
棺が燃え、手が燃え、足が燃えていきました。
夕方近くなって、火が消えると、
素手で灰を掬い、骨を拾い、そして海へと運んだのでした。

死ぬことは人生最大で最後のお祭りです。
お金をかけて盛大に行われます。
予算が無ければ、とりあえず土葬にします。
数ヶ月の後、あるいは数年の後、
お金ができると、土を掘り直して、
真っ赤な土に染まった遺体を、骨を、掘り起こし、
赤や黒の大きな牛の形をした棺の中に収めて、
二度目のお葬式を火葬で行います。
その時期が決まっていて、
一斉に行うものですから、それはそれはにぎやかでした。

見るもの、聞くもの、すべてが衝撃でした。
私は、日に焼け、巻スカートのようなサロンを身につけ、
サンダル履きで、ほとんど現地人のようになりました。
子供たちと海にいきました。
さらさらの砂に遠浅の海岸。
インド洋の波に乗り、星が出るまで遊びました。
乗合バスに乗り、古代仏教の遺跡や、
洞窟、バリ島最大のヒンズー寺院ベサキを訪ねました。
またある時はバイクを借りて、
一人で島のあちこちを訪ねました。
とある寺院で、無数の野猿に睨み付けられたり、
廃屋同然の寺院で神妙な気分になったり、
塩田を見たり、絣の織物工場を見たり、
インド商人や、オランダ人に出会いました。
ある時、観光コースから外れた場所で、
日本人画家の観光客に、
日本語の上手な現地人と間違われた事もありました。
またある時は、あぜ道で数分間ヘビとにらめっこをしたリ、
知り合った村の人から、赤蟻が入った紅茶をいただいたり、
「どうぞ」と薦められて「だいじょうぶかな」と思う物も食べました。
蚊に刺される事は当たり前で、蠍に足を刺された事もありました。
この時はびっくりしました。
もうだめかと思ったのですが、ティダアパアパ(大丈夫)との事で、
命に別状はありませんでした。(しかし痛みはすごかったです。)

いろいろな事がありました。
たくさんの友達ができました。
一人の日本人青年を皆暖かく受け入れてくれました。
知らない人も、微笑みが挨拶でした。
素敵な微笑みを持った人々でした。
かつて、日本も微笑みの国でした。

時によって、物事は近づくより、
離れたほうが良く見えるときがあります。
「木を見るには近づく事、森を見るには離れる事、
時計を見るには耳を澄ます事。」
日本を見るには外から見る事も必要です。
アジアの中での日本の位置、日本人とは何ナノか、
この時代に生きるという事はどういう事なのか。
普段にこやかに接していたおじいさんが、
ある時「さくら、さくら」を歌ってくれました。
ロウムシャ、バカヤロウという片言の日本語を交えながら、
かつて日本軍がいた頃を語ってくれました。
そこには、アジアの民と、日本の民との苦しい接点があるのです。
かつて長くインドネシアを支配していたオランダを追い出すべく、
同胞として入国し、やがてオランダに変わって支配する事になった日本。
救世主が支配者になり、過酷な条件を突きつけてきたのです。
南の島にまで、鳥居を建て、神社を建立し、日本語を国語としようとしました。
服従か死かの選択の中で、多くの悲劇が生まれました。
1945年8月15日、日本は連合国に無条件降伏。
2日後の8月17日、インドネシアは独立を宣言したのでしたが、
オランダからの正式な独立は1947年の事でした。
独り立ちしても苦悩の道は続き、
独立の英雄スカルノは1965年軍部によるクーデターによって失脚。
スハルトの時代への移行時の血で血を洗う内乱状態。
その当時から十年ほど前の話です。
平和がいかに大切か、問題解決に武力を使う事の悲惨さと愚かさ。
人類の歴史は戦争の歴史です。

そして第二次大戦後30年。
日本は敗戦国なのに目覚しい発展をとげました。
ヨーロッパ列強の支配下に長くいた植民地国にあって、
同じアジアの国が欧米の仲間入りを果たした事に対する驚異の眼。
そして再びの日本の経済による侵略。
それに対する学生達の反発。
日本の海外投資先ではインドネシアが常に上位にありました。
しかし、多くの人々が過去の悲惨な歴史を超えて、友好的で親日的でした。

一人で旅をすると心の旅をします。
二人、三人でいく旅は、飲んで騒いで「ああ面白かった」で終わりがちです。
一人はあくまで独りです。
苦しいときも、うれしいときも、感激のときも、困難なときも、
いっしょに、喜んだり、助け合ったり、慰め合う事はありません。
すべてを一人で解決していくしかないのです。
五感が研ぎ澄まされ、感受性が豊かに高まっていきます。
だから、心の旅を、内面への旅をするのです。
今まで見えなかった自分が見えてきます。
また、旅先で出会った人を、物を、大切にしたいと思うのです。

人生は旅です。
生きていくこと、それ自体が時間と空間の旅なのです。

それから5年後、妙さんとの新婚旅行は迷わずバリ島を選びました。
懐かしい人々と再会しました。
結婚して約14年、再びバリ島を訪れる機会はまだありません。
南の島もかなり観光化された模様です。
友人達が日本に来られればよいのですが。
そして、お世話になった方々に少しでも恩返しができると良いのですが。
いつの日にか妙さんや子供を連れて、
置き忘れてきた私の青春の世界を訪ねてみたいと思うのです。


追伸
いつの日にか、ジャカルタやスラバヤ、マランやジョグジャカルタ、
あるいは、パレンバン、ブキットティンギーのことを書きたいと思っています。


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