「束の間の休息」



2003年5月20日
小 原 茂 幸

▽諏訪赤十字病院に手術のため1週間ほど入院した。 昨年暮にこじらせた風邪が原因で30年ほど前の古傷が疼き出したのだ。 いったんは薬で押さえ込んだかのように思えたのだが、 2月から3月と日を追うにしたがって痛みがひどくなり、 さらに痛みの場所が拡大していった。 多忙な身にて、仕事は普段と変わらずこなさざるを得なかった。 手術ができるのは飯田市立病院か諏訪日赤か信州大学付属病院かの3箇所しかなかった。 4月に行われた長野県議会議員選挙投票日の翌日の月曜日、決心をして諏訪日赤へ。 毎週木曜日の手術日はすでに月内は予定でふさがり、5月の第2木曜日の手術となった。 痛みが広がると、恥も外聞も無く、無論手術の痛みのことなど考えはしない。 「何とかしてください」の一念のみで、決心も早かった。

▽4月の下旬に事前検査を行い、5月7日、とうとう湖の見える7階の病室の一員となった。 妻が付き添ってくれた。同室の3名は年輩者であった。 長期の方は数ヶ月間に渡る闘病生活だった。この病院の3階には温泉が引かれていた。 手術日前日のお風呂から病室に戻れば、その晩から点滴がなされ、気分も1人前の病人となっていった。 翌日11時前に点滴のスタンドを転がしながら手術室まで歩いて行った私は、手術台の上の人となった。 そして新たな点滴薬が流され、口にマスクをあてがわれると数秒で意識が無くなった。 全身麻酔。手術は2時間ほどで、お蔭様で無事終了。 気づいた時はストレッッチャーから病室のベッドに移動するために、目を覚まさせられたところだった。 名前を呼ばれて返事をし、先ずは指先が動くか、つま先が動くか試してみた。 指が思い通りに動き安心すると同時に、この世に戻ってこられたことに感謝した。 その後もうつらうつらで夕方まで眠った。目を覚ませば、脇に居た妻の笑顔がうれしかった。

▽手術日の翌日、すなわち5月9日。ナイチンゲールの聖誕祭の催し物「ふれあいコンサート」があった。 ナースの卵達が事前に案内をし、当日も迎えに来てくれた。 七階の中ほどのロービーには入院して闘病を続ける老若男女や付き添いの家族らが集まった。 高齢者が多かった。ストレッッチャーに寝たきりの痩せて骨と皮ばかりのおばあさんも居た。 折り紙の花が1輪づつ手渡され、歌詞カードが配られた。看護専門学校の学生達のトークと合唱。 落ち着いた居住まいの2年生、初々しさを隠せない1年生。 「ビリーブ」、「美しく」、「世界に一つだけの花」、そして「大地讃頌」。 ストレッッチャーのおばあさんは折り紙の花を、両手を会わせるようにして胸の上に置き、 仏様のような穏やかな顔で、静かに歌に聞き入っていた。 それを見ながら合唱をしていた学生の一人が、感極まって涙をぼろぼろと流し、 それにつられて数名の声が歌にならなくなり、それを見つめる観客も涙を誘われ、涙、涙の合唱となった。 その夜はさらに、看護学生達のキャンドルサービスが各病室を回って行った。 ベッドの一人一人に声をかけ、折り紙で作られたハートの形のメッセージには、 手書きのいたわりの言葉が記されていた。心に残る、思い出の一駒であった。

▽おかげさまで一日一日と日が経つにしたがって痛みも和らぎ、気持ちも楽になっていった。 同室の仲間とも様々な会話を交わし、眠くなれば眠り、起きれば思索にふけり、 書を読み(「ゲド戦記X・アースシーの風」が11年ぶりのシリーズとして刊行され、大切に読ませていただいた)、 さらに思索を深めた。

▽入院から7日目に、退院の日を迎えた。午前中に3階にある温泉に一人で入り、 この日が来た事に感謝した。 せっかく気心の知れた仲間となった同室の方々には、 一番後から仲間に入って、いち早く退院することになり、何となく気が引けた。 一日も早い回復を願った。担当の先生や看護士の方々にお礼の挨拶をし、 感謝すると共に病院を後にした。妻の運転する車で、高速道路を通って1週間ぶりに我が家に戻った。 5月、新緑が目にしみた。

▽働き盛りで入院を体験すると、人生を様々に振り返るものだ。 年間休日30数日。年間出張回数50数回の働き蜂である。 一年のうち、120日ほどは県外にいる。 「休むには入院しかないよ」といっていた身の、束の間の休息だった。 人生様々。生きられるだけ、生きていきましょう、お互いに。(S.Ohara)









目次へGO BACK

お読みいただきまして
たいへんありがとうございました。
このページをご覧になった
ご意見、ご感想などお気軽にお寄せください。

PINE HILL Mail: info@komagane.com

(C)Shigeyuki Ohara,2003 All Right Reserved